男が一線を退くとき。そのとき妻は…。ノムさん・サッチーの場合
野村の哲学ノート④
■現役引退を決意した瞬間
1980年9月28日、西武球場で行われた阪急ブレーブスとの試合だった。3対4と1点を追う8回裏、1死満塁というチャンスで、この日スタメンに名を連ねていた私に打順が回ってきた。
最低でも犠牲フライを打って同点にしておきたい場面である。私は出場する機会が減ってはいても、それまで通算113本の犠牲フライをマークしていた。いまだに破られていないプロ野球歴代1位の記録であり、まさに、私にもってこいの打席を迎えたと言ってよかった。
ところが、意気揚々とバッターボックスに向かおうとすると、当時の根本陸夫監督から呼び止められた。
そして、
「野村君、代わろうか」
と声を掛けられ、ピンチヒッターを出されてしまったのだ。打席に立ったのは、プロ7年目の鈴木葉留彦(現西武球団本部長)だった。
ベンチに戻った私の頭の中は、「なぜだ?」という疑問と「俺は鈴木よりも劣るのか」という悔しさがない交ぜとなっていた。
さらには、グラウンドを見つめながら、
「こんな代打策、失敗してしまえ!」
と願い、鈴木が併殺打に倒れたときには、
「ざまあみろ。だから俺を交替させなければよかったんだ」
とまで思うようになっていた。そしてチームは、9回表にブレーブスに追加点を許し、3対5で敗れた。
だが、自動車を運転して帰る途中、何十分か前に抱いた感情を思い出したときは、自分自身に失望するしかなかった。
「フォア・ザ・チームの精神を忘れてチームメイトの失敗を願うなんて、監督まで務めた人間がすることか……」
それまで私は、個人の成績よりもチームの勝利を常に優先してプレーしてきたという自負があった。
1965年に戦後初の三冠王のタイトルを獲得したときも、決して狙っていたわけではなく、リーグ優勝という目標に向かって、試合に臨み続けた結果に過ぎない。それによって、優勝と三冠王を現実のものにすることができたのだ。113本もの犠牲フライを打ったというのも同じことだろう。
そんな自分が、いつしかチームよりも自分のことを優先して考えていたのである。
「これは潮時かな……」
車内でポツリとつぶやき、私は引退の意志を固めた。
しかし、私には、1978年に籍を入れた沙知代と克則という家族がいる。今後の生活のことを考えると、勝手に話を進めるわけにもいかない。そこで帰宅して早々、私は沙知代に向かって、
「俺もそろそろ潮時だ。現役を引退しようと思う」
と伝えた。
しかし、
「ふーん、そうなの」
といった程度の反応だったため、続けて、
「お前、俺が選手を辞めた後のことが心配にならないのか?」
と聞いてみたところ、返ってきた言葉は、
「なんとかなるわよ」
だった。そのあっけらかんとした態度に、こちらも拍子抜けするほかなかった。おかげで心が軽くなったことを覚えている。